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2011年3月26日

「英語と日本語のあいだ」菅原克也 著

「はじめに」より抜粋
本書の記述は、「コミュニケーション英語」重視の風潮の中で、広く唱えられている意見とは、大きく立場を異にする。そのような主張をする理由については、本書を最後までお読みただければ、理解していただけるものと信じる。主眼となるのは、日本人として英語という外国語とどう向かいあうべきなのか、という点である。


以前読んだ鳥飼久美子先生の「『英語公用語』は何が問題か」でも取り上げられていた、コミュニケーション英語重視にシフトする中で改編された学習指導要領が気になっていました。私は指導要領改訂前の世代であり(当然ながら…)、高校時代に文法は徹底的にたたき込まれ、定型句をひたすら覚える詰め込み型の教育を受けました。

思い起こせば中学1、2年生の頃は私は英語では嫌いではありませんでした。(実は随分長い間、英語はずっと嫌いな科目だったのです。)中学生の文法など、文型があって、せいぜい進行形、受け身程度です。私程度のCPUしか無くても何とか処理できるレベルでした。


ただ、記憶呼び出しのパフォーマンスは人より悪かったことと、語彙のデータベース構築が出来ていなかっために、恥ずかしながら得意科目ではありませんでした。それでも、パズルみたいで楽しい!と少なくとも中学二年くらいまで感じることが出来たのは、やはり「文法のおかげ」と思っています。
 

しかし、高校時代に入ると本当に辛かったのです。現在完了、過去完了、そして何と言っても仮定法。仮定法過去、仮定法大過去。文法事項に恐ろしく難しそうな名前が付いており、それぞれパズルの公式を覚えて、覚えたものを1つづ即座に呼び出すことができなければ、長文を読み解くことができません。勉強大嫌いな私は、ただただ記憶能力と記憶呼び出し能力を問われる英語に、だんだん耐え難いものを感じるようになりました。

先に紹介したマーク・ピーターセン氏の本を読んでいたらなどなんなに違っただろう…と本当に思います。

紆余曲折を経て(?*)浪人するわけですが、奮起して力を入れたのは英語でした。浪人中はとにかく英文読解の問題集を繰り返し訳読しながら解きました。しかし、たたき込まれた辛かった文法がここでとても役に立ったのです。最初は記憶した文法の呼び出し速度がものすごく遅く、解読の速度も途中で投げ出したく程スローでした。でも、我慢して覚えた文法事項を手元の文法書で再度確認しながら読めば、確実に読み解くことは出来たのです。とてもヘンテコな訳文でしたが、それでも「何が言いたいのか分かる」程度にまでは仕上げられたのです。

そうした経験から、文法の重要さ、訳読を繰り返すことの意義は大きいと感じています。著者の主張はこの部分について、全く私の考えてる事と同じで大変共感しました。

ある年齢まで日本語で育った日本人が、英語で英語を習得しようとすることの難しさを例を挙げながら忍耐強く説明しています。授業時間が一般公立高校では週3-4時間と限られており、その中で効率的に英語を学ぶには、日本語で教える文法が強力なツールになるという主張です。

しかし、100%彼の主張に賛成してもいいのか?という気持ちにもなりました。そもそも、10年間英語を「教えてもらった」から英語が使えるようになるという考え方が間違っていると思います。その点は著者も強調していることです。であればなぜ「生徒が『自主的に』取り組みやすいコミュニケーション英語」を否定する必要があるのでしょうか?

「教えてもらった」英語の身につくスピードはたかが知れています。これは英語に限らないでしょうが、言語を使うということは脳味噌の中にそれ専用の筋肉を作る作業だと私は考えています。であれば、詰め込んで知識があるだけでは使えないのは当たり前なのです。私の場合、浪人中にやっと勉強を主体的にするようになって、英語の成績は驚く程伸びたのです。

著者はそうした筋肉を作る作業を、私も経験した「訳読」だけに求めている、あるいは時間が足りないから「訳読」するしかない、という論調です。しかし、本当に訳読だけが筋肉作りに重要な作業なのか?私にはどうしてもそうは思えないのです。

授業時間が足りないければ、生徒が「自主的に」学びやすい教材や手法を取り入れ、授業時間外の勉強時間を確保させることは出来るはずです。繰り返し聞くことで英語のリズムに慣れる、会話の定型句を覚えることができるでしょう。また、流し聞きでも繰り返すことで自然に耳にが覚え、口をついて出るセンテンスも生まれます。それだけでは不十分十分なのは明らかですが、生徒の自主性に訴える事が出来る可能性を排除することはないと思うのです。

私自身、訳読一本やりの学校教育へ疑問を抱くのにハッキリとした根拠はありません。しかし、長く英語をやってきた者の勘ともいえるものです。もちろん、コミュニケーションの定型句を覚えるだけでは、微妙に状況の違う設定では活用できないこともあるでしょう。(著者は文法の知識があれば状況に合わせて文章構築が出来るとしています。)しかし、耳から入る英語、しゃべる英語により鍛えられる筋肉は確実にあります。著者もそれを否定していません。とにかく授業時間を考えると効率が悪すぎるとしています。

本当にそうなのでしょうか…?私自身は、訳読偏重の効率の悪い勉強の仕方をしてきたという意識があります。もう少し音声教材もしっかり取り入れ、興味の持てる、詰め込みに終始しない授業を受けていればもっと違った学びのステップがあった気がするのです。実際、会話を通じて知らないうちに脳内筋肉をつけ、後から文法を習得してさらに全体的な英語力を上げることの出来たと思われる人を少なからず知っています。

例えば中学時代に中途半端に海外に二年ほ居た人などはそうでしょう。こういう人は、日々の生活の中で英語の筋肉を脳内に作ることにはある程度成功していながら、自然に喋れる、聞ける、読めるには至っておらず、やはり能動的に勉強する必要があったと思うのです。どうやっても、ただ海外に二年程度住むだけでは、ぺらぺーら!にはなれないからです。

コミュニケーション英語偏重の英語教育には賛成出来ません。しかし、英語が「出来る」ようになるのにひたすらパズル文法、詰め込み文法で辛い「訳読」に耐えるしかないやり方から脱却した、別の英語勉強法があるような気がしてなりません。そうした勉強の仕方をされた方に是非本を書いていただきたいのですが…笑。 皆さんはどう思われますか…?

(*)ちなみに私の紆余曲折を知りたい方は、コチラもどうぞ(笑)