震災・津波・原発に関連して二冊続けてご紹介しました。
震災・津波・原発事故で、日本人は物理的にも精神的にも以前の生活を取り戻すことが出来ずにいます。或いは、もう日本は変わってしまったと言うべきなのかも知れません。震災以前にはどうやっても戻ることはできないのでしょう。
震災直後から直接津波や原発の被害にあわれた方にかける言葉がなかなか思いつかない…というか、言葉をかけること自体が私にとっては恐怖でした。それは、私が西日本在住で余震の怖さすら経験していない、メディアから得るつたない情報だけを頼りに頭でしか理解しておらず、実際に被災し、大切な人を亡くした状況にはないからでした。
被災した方に気持ちを寄せて励ましたいと考える一方で、我知らず迂闊な言葉で逆に思いが伝わることなく傷つけてしまうのではないか…。そんな不安がありました。だからかどうか自分でもよく分らないのですが、原発事故が一向に収束しない状況の地震後ちょうど一ヶ月の日に「何を聞いても、何を見ても絶対に人前では泣かない。」と自分に決めたのです。すごく泣き虫なので(苦笑)
ところが…先日東京で立ち寄ったインド料理店のご主人が炊き出しをされたお話を伺う機会がありました。インドからの若いお客様に向かって話をされていた時です。どうにもこうにも涙が止まらなくなってしまいました。情けないことに泣いていたのは私だけ。これではいけない…と強く感じました。
よく自分が理解できていないにもかかわらず、被災地から聞こえてくる悲しい状況に第三者的立場で涙を流すことに罪悪感と情けなさを感じた結果だと思いました。
原発の状況、放射能の被害については、新聞レベルの情報は目にしていました。しかし、政府の二転三転する発表を信用できなくなり、自分で調べてみるものの、ネット上には莫大な情報が流れ、専門家の見解も分かれており、さらに関係各機関の発表する安全基準の数値に整合性が保たれているのかが全く見えて来ませんでした。
本屋には5月になると震災や原発、放射能を扱った書籍が出るようになっていたので、よくまとまっているものを読みたいと思って探していましたが、センセーショナルだったり、単に批判めいた題名のものが多くて、書評やまえがき、あとがきすら読む気にならない状況でした。そんな中先に紹介した二冊は、客観的に分りやすく書かれた良著だと思います。
先日、こんなニュースが流れました。
J-CASTニュース7月1日(金)18時39分
「放射線で傷ついた遺伝子、子孫に伝わる」 クロワッサン「不適切」と謝罪
ヒロシマ・ナガサキにおいては「安全かどうか分らない事」についてあらぬ噂が広がり、ヒバクシャ達は辛い体験を強いられた過去があります。そもそも風評被害は経済的影響を伴うもので、こうした人々の心に残される傷はカウントされません。
65年前には「安全かどうかの判断基準がなかった」ためこうした悲しい出来事が起こりました。しかし当時と今では放射線に関する人類全体がもつ知識量・情報量が全く違います。放射能による被害が遺伝するかは科学的に実証されていません。実際に中身を読めば、これは発言の一部を抜粋しただけで、発言の全文を読めばまた違ったメッセージが見えて来ます。
実証されていないと言うことは完全に安全かどうかを言うことは出来ない。だからこそ「不必要に放射線に触れないようにする。特に影響を受けやすいと思われる妊婦やこどもは注意する。」と言うことをICRP(国際原子力防護委員会)の勧告をベースに日本政府も呼びかけているわけです。記事のメッセージも大筋ではそうした政府見解に沿ったものだったようです。
たった二冊の本を読んだだけで十分な知識が身についたとは全く思っていません。被災した方や関東圏の方は、もっと勉強されていると思います。そうやって得た、それでも限られた情報の中でも、自分の判断に従って避難することを決める方もいれば、状況がゆるさずそれができない…という方もいるでしょう。またその必要がないと判断する人ももちろんいるはずです。どんな選択をするのも個人の自由であり、その選択が批難や中傷の対象になるべきではないと考えます。
それなのに、上記のクロワッサン謝罪の件では一部がセンセーショナルに取り上げられたために、メッセージが伝わらずに結果謝罪という事態に追い込まれます。記事自体の主張に明らかに間違った事実は述べられていなかったのに、です。こんな事が続けば、メディアが自分達自身のクビをしめることになるとなぜ気がつかないのでしょうか?
わたしが聞いたところだと「放射能に関する話題は関東では表だって話するコトがちょっとタブーっぽい…」という空気があるようです。自分の判断を主張することが出来ない世の中の空気はとても危険です。人々の判断を担保するのが正しい情報提供だと思いますし、それがあって初めて安心して自らの判断を主張できるはずです。つまり、今の状況は「正しい情報提供」にたいして人々が不信感を抱いていることの証拠でしょう。
一般の人がよりどころにできる情報を提供すること、それを以て国民の信頼を回復すること、それが政府、メディアに今問われていることだと考えます。
震災直後から直接津波や原発の被害にあわれた方にかける言葉がなかなか思いつかない…というか、言葉をかけること自体が私にとっては恐怖でした。それは、私が西日本在住で余震の怖さすら経験していない、メディアから得るつたない情報だけを頼りに頭でしか理解しておらず、実際に被災し、大切な人を亡くした状況にはないからでした。
被災した方に気持ちを寄せて励ましたいと考える一方で、我知らず迂闊な言葉で逆に思いが伝わることなく傷つけてしまうのではないか…。そんな不安がありました。だからかどうか自分でもよく分らないのですが、原発事故が一向に収束しない状況の地震後ちょうど一ヶ月の日に「何を聞いても、何を見ても絶対に人前では泣かない。」と自分に決めたのです。すごく泣き虫なので(苦笑)
ところが…先日東京で立ち寄ったインド料理店のご主人が炊き出しをされたお話を伺う機会がありました。インドからの若いお客様に向かって話をされていた時です。どうにもこうにも涙が止まらなくなってしまいました。情けないことに泣いていたのは私だけ。これではいけない…と強く感じました。
よく自分が理解できていないにもかかわらず、被災地から聞こえてくる悲しい状況に第三者的立場で涙を流すことに罪悪感と情けなさを感じた結果だと思いました。
原発の状況、放射能の被害については、新聞レベルの情報は目にしていました。しかし、政府の二転三転する発表を信用できなくなり、自分で調べてみるものの、ネット上には莫大な情報が流れ、専門家の見解も分かれており、さらに関係各機関の発表する安全基準の数値に整合性が保たれているのかが全く見えて来ませんでした。
本屋には5月になると震災や原発、放射能を扱った書籍が出るようになっていたので、よくまとまっているものを読みたいと思って探していましたが、センセーショナルだったり、単に批判めいた題名のものが多くて、書評やまえがき、あとがきすら読む気にならない状況でした。そんな中先に紹介した二冊は、客観的に分りやすく書かれた良著だと思います。
先日、こんなニュースが流れました。
J-CASTニュース7月1日(金)18時39分
「放射線で傷ついた遺伝子、子孫に伝わる」 クロワッサン「不適切」と謝罪
ヒロシマ・ナガサキにおいては「安全かどうか分らない事」についてあらぬ噂が広がり、ヒバクシャ達は辛い体験を強いられた過去があります。そもそも風評被害は経済的影響を伴うもので、こうした人々の心に残される傷はカウントされません。
65年前には「安全かどうかの判断基準がなかった」ためこうした悲しい出来事が起こりました。しかし当時と今では放射線に関する人類全体がもつ知識量・情報量が全く違います。放射能による被害が遺伝するかは科学的に実証されていません。実際に中身を読めば、これは発言の一部を抜粋しただけで、発言の全文を読めばまた違ったメッセージが見えて来ます。
実証されていないと言うことは完全に安全かどうかを言うことは出来ない。だからこそ「不必要に放射線に触れないようにする。特に影響を受けやすいと思われる妊婦やこどもは注意する。」と言うことをICRP(国際原子力防護委員会)の勧告をベースに日本政府も呼びかけているわけです。記事のメッセージも大筋ではそうした政府見解に沿ったものだったようです。
たった二冊の本を読んだだけで十分な知識が身についたとは全く思っていません。被災した方や関東圏の方は、もっと勉強されていると思います。そうやって得た、それでも限られた情報の中でも、自分の判断に従って避難することを決める方もいれば、状況がゆるさずそれができない…という方もいるでしょう。またその必要がないと判断する人ももちろんいるはずです。どんな選択をするのも個人の自由であり、その選択が批難や中傷の対象になるべきではないと考えます。
それなのに、上記のクロワッサン謝罪の件では一部がセンセーショナルに取り上げられたために、メッセージが伝わらずに結果謝罪という事態に追い込まれます。記事自体の主張に明らかに間違った事実は述べられていなかったのに、です。こんな事が続けば、メディアが自分達自身のクビをしめることになるとなぜ気がつかないのでしょうか?
わたしが聞いたところだと「放射能に関する話題は関東では表だって話するコトがちょっとタブーっぽい…」という空気があるようです。自分の判断を主張することが出来ない世の中の空気はとても危険です。人々の判断を担保するのが正しい情報提供だと思いますし、それがあって初めて安心して自らの判断を主張できるはずです。つまり、今の状況は「正しい情報提供」にたいして人々が不信感を抱いていることの証拠でしょう。
一般の人がよりどころにできる情報を提供すること、それを以て国民の信頼を回復すること、それが政府、メディアに今問われていることだと考えます。