つい最近、ある女性会議通訳者がアクル社ウェブサイトの「現役通訳者のリレー・コラム」に「フリーランス通訳と子育ての両立」というテーマで寄せたコラムを読んで、根底にあるメッセージは同じかもしれないけど、私が書くと違うものになりそうだと感じました。実は、個人の置かれている環境は人それぞれであるため、「生き方」の類で持論を展開したところで何か他の方の参考になるようにも思えず、このブログではなるべく子育てや家族といった個人環境については取り上げないようにしてきました。ですが、私の歩いた道のりの中で考えたこともどなたかへのヒントとまではいかなくても、何らかの形で勇気づけることができるかもしれない…と、先の女性通訳者のコラムを読んで気付いた次第です。
くだんのコラムの通訳者との大きな違いは、私はまだ通訳者としての実力も実績も十分でない時期から子育てが始まっていたということ、さらに地方で活動していたということです。その辺りも意識しながら、私がフリーランス通訳者として今に至る経緯も書いて見たいと思います。少し違った切り口ではありますが、数年前のハイキャリアさんインタビューのVol.52 「ワークはライフ、ライフはワーク(前編)(後編)」の中でも書いていますのでご興味がある方はどうぞ。
私はご存知の通り広島はマツダ株式会社のお膝元在住です。マツダといえば90年代後半にかけてアメリカのフォード社との提携関係を強め(トップに多くのフォード役員が名を連ねた時期がありました)当時のマツダ広島本社では常に嘱託社員待遇の通訳者の募集をしていたと記憶しています。私自身、英語を勉強すれば通訳でなくともマツダに職を求められるかもしれない…という計算はどこかに芽生えていたように思います。
ところが私が英語の勉強を始めたのが96年頃で、通訳どころか英語を一からやり直すという有様。同年に生まれた娘は今年20歳になりますが、娘を出産して一年半後には長男も生まれ、同時期に通訳学校に通い始めたものの勉強のペースはなかなかままなりませんでした。幸か不幸か夫は長女が幼稚園の年中の頃まではほぼ単身赴任状態でしたので、子どもが寝てから後の時間をすべて自分の時間として勉強に捻出していたという感じです。
通訳学校に通い始めたきっかけはある通訳者の講演会を聞いて触発されたことだったのですが、当時は必ずしも「通訳」を目指していた訳ではありませんでした。子育てで家庭に入ったことで社会と隔絶されてしまった自分に打ちひしがれていたところへ、「英語」「マツダ」「広島」というキーワードでなんとか社会復帰しよう…と先の見えない道を進んでいた感じです。
そもそも社会からの疎外感の根源にあったのは「経済的に自立していない自分」に気付いてしまった時の衝撃でした。そして、小さな子どもを育てている多くの親御さん達が経験する事だと思いますが、私にも不安にとりつかれ精神的に安定しない時期がありました。夫の単身赴任ですべての子育て責任を自分で果たさなければならない状況で、精神的に揺れてしまう自分…。悩んだ末「精神的な自立のためには、経済的な自立が必要」と意識的に考えるようになるのは、長女が小学校に上がる頃でした。
子ども達を平日の昼間に公立の一時保育に預け通訳学校にでかけました。二人を連れて半年間オーストラリアへも留学しました。小学校一年の娘に学童保育から帰り道の託児所に五歳にならない長男を迎えに行かせて、フルタイムの派遣の仕事に出はじめました。その間に夫の単身赴任は終わりますが、家事分担のバランスが分からず数ヶ月ごとに過労で倒れます。家事のペースはなかなかつかめないまま、それでもフルタイム派遣の仕事で残業も進んで引き受け、下の子が小学校に上がると海外出張へも行くようになります。一時病気入院をしたことで派遣切りの可能性を現実味をもって認識、フリーランスへの種まきを始めます。そしてそのうちリーマン・ショックで派遣切りが現実となり、本格的に東京へと仕事へ出かけるようになり今に至ります。
こうしてみると私はけして子育てと仕事を上手く両立できているとは言えず、自分は好きに自分の選択をしてきただけで、むしろ、子どもが健康で無事に「運良く」育ってくれたと言ったほうが適切なように思います。幸いなことに、好き嫌いせず何でもよく食べる子ども達でアレルギーもなく、病気も人並みにしたという程度です。そんな状況で「子育ての苦労をした」と言うにはあまりにも傲慢なように思えます。
一方、子どもたちはやはり「苦労」ともしらず苦労していたのではないかと思います。通訳学校に通うために預けた一時保育に泣き叫ぶ二人を置き去りにしました。幼稚園のお迎えはいつも最後。留学先へ無理やり父親と引き離し連れて行き、帰国当初は「父さんと離れるならもう行かない」と言った息子の言葉が忘れられません。そして一番辛かったのは高校生になった娘の不登校でした。
これはつい数年前のことです。私の東京滞在中に「今日も休んでる」という連絡を受けては、一人自宅マンション10階にいるであろう娘を思うと生きた心地がしませんでした。夫も何度となく彼女を学校まで送り届け、出勤までに登校しなかった日は会社を早退して様子を見に帰りました。「信用して大丈夫、お母さんが仕事に行けば『なんだ!』と反抗心も出るけれど、休めば『自分のせいで休んだ』と思うのだから、普段通りに振る舞って」という学校の先生の心強い言葉にすがるような気持ちで、東京での仕事のペースは結局は落としませんでした。それでも気持ちが落ち着くということはもちろんありませんでした。
これまで教えた生徒さんや友達から「どうしてそこまで(犠牲を払うことが)できるんですか?」と何度も聞かれましたが、本当のところを上手く説明することはできませんでした。ただ言えたのは上述した「精神的な自立を得るために、経済的な自立をしたかった」ということだけです。ですがそのために家族にかけた負担や東京往復にかかる経済的そして肉体的負担は膨大であり(今もそれは続いているのですが…)それでも根底で私を支えているものについて説明することは難しいので止めておきます(笑)
しかし一つ言える事があります。それは「通訳という仕事を見つけたこと」が自分にとってとても大きかったということです。「経済的な自立」だけを目指すのであれば、当時であれば派遣社員をした後に正社員で働くことはまだまだそれ程難しくありませんでした。実際に幾つか英語を使う別の職種で熱烈に正社員職へのオファーも受けましたが、それらをすべて断れるだけの思い入れを「通訳」という仕事に見いだしました。他に専門が無ければ英語/語学を学んでできる仕事は「通訳」「翻訳」「教える」の3つで、そのすべてを経験しましたが「自分は通訳が好き、上手くなりたい」と素直に思えたのです。この「通訳」という仕事への思い入れが、その後の私を支え続け、今も支えてくれています。その上で「上手くなるにはどうすればいいか」を常に考え最優先させてきたように思います。
と考えてくると、全然両立へとたどり着かない…(苦笑)
何度も言いますが、私は幸運だったのです。ここまでなんだか全然勇気づけの要素なく、参考にならなそうな仕上がりですが、もう少しお付き合い下さい。