私自身は広くITを専門に通訳者として稼働をしている関係上、テクノロジーを利用した身近なガジェットにも興味があります。ですのでRSI、遠隔通訳が理論的、技術的には随分昔から可能であったはずだと考えていました。しかし、それがなかなか実現しなかったのは、言い方は悪いかもしれませんがそこに既得権益を享受していた者がいたからであろうと個人的に感じています。しかし、そうした既得権益や無駄を排除せよとばかりに「コスト削減一直線」で時間軸を無視して邁進したのでは、見落としてしまう価値があまりに大きすぎないかとも思うのです。
排除すべき無駄と見えていない必要なもの
では既得権益とは何か、見落としてしまう価値は何か、を少し具体的に考えてみました。日本の通訳市場におけるメインプレーヤーは、お客様、通訳者、そして通訳エージェントおよび機材業者です。既得権益を享受しているのは、すべての関係者だと私は思っています。既得権益と言うもはやビジネスに直接価値を生まないような部分を解消すれば業界全体がプラスの方向に向かう可能性が大きいということになります。
では、お客様と通訳者の既得権益(的なもの?)とは?遠隔会議の選択肢がなければ、出張対応し海外等の遠方に足を運び会議をすることになります。高い交通費を会社に出してもらい広く世界を見聞するチャンスを得ることはやはり役得の一面がありました。また、機材業者にとってはすでに減価償却した機材は、活用すればするほど儲けに直結するという旨味があるでしょう。ここであえて私が「既得権益者」という言葉を使わなかったのは、一見、既得権益と見えるものの陰に「今はまだ」見逃すには大きな価値が存在していると考えるからです。そのすべてひっくるめて考える時、既得権益を享受する人を即「既得権益者」と呼ぶべきではないでしょう。
例えば、お客様や通訳者が現地に行かずに会議だけで大切な契約を結ぶことができるでしょうか?もちろん、契約の内容や規模にもよるでしょうが、長く関係を結びたいと考えるビジネスであれば相手を知ることはとても重要です。パートナー候補がどんな土地でどんな事務所を構えて事業をしているのか。会社の雰囲気はどうなのか。地元での評判はどうなのか。現地に行かなければわからないことは山ほどあります。製造業であれば「物で確認する」が基本ですから言わずもがな…でしょう。こうしたことは人間の経験による判断力や直感です。中でも直感は、言葉で理論的に説明できないものの経験的にその場の雰囲気から違和感を感じ取ることで得られるものであり、その感覚に基づく判断はけして無視できるものではなく、直感を信じる信じないことのリスクを測りながら最終的な決定を下しているはずです。
変化へ向けて敢えて「今はまだ」と立ち止まること
これには、だから今Artificial Intelligence/人工知能が注目されていると言う反論もあるでしょうし、将来的に状況は変化すると私も考えています。しかし、「今はまだ」そこまでの対応を即座にAIに期待できるレベルではありません。であれば、経験則に基づく判断をするには、例え多くの会議や折衝をメールや電話等の遠隔で行ったとしても、どこかの段階で現場に赴いてビジネスパートナーやその候補に会うことはとても重要なことだと思うのです。様々なところで「人間は結局人に会いたいのだから、現場は戻る」という論調を見かけますが、私はそれでは説明が弱すぎると思っています。将来的には人間の顔をした人間のようなAIが登場するかもしれません。だから強調するべきは「今はまだ、それが必要である」と積極的に必要性を肯定する考え方ではないでしょうか。
通訳者はどうなのか?利用機材はブース内のものとほぼ変わらないし、自宅から仕事ができる、しかも世界を相手にするので時差のある地域の仕事も取り込めれば自分が好きな時間で稼働することができます。しかし、実際にはそんなに甘くありません。自宅環境をいくら万全に整えても、停電やネットワークの不具合のリスクはゼロではありません。そして、その対処や瑕疵責任の所在に明確に言及している例を未だみたことがありません。また、現場ではブースメイト通訳者とペアで連携した部分が、遠隔になることで補完される機器により様々なテクノストレスを引き起こします。さらに現場に向かわないことのその他の弊害として、リハーサルに参加できない、事前打合せをしてもらえないなど、通訳パフォーマンスに直結するような環境変化も出てきています。そして、通訳者も現場の状況や空気から経験に基づく直感で訳出をなんとか紡いでいる場面は少なくないのです。
そして、ここでも注目したい視点は「今はまだ」です。これらの問題も5Gが広く普及し、ルールの整備が進めば心配無用になるでしょう。ホログラムでパートナーを自分の横にバーチャルで映し出せれば、パートナーをリアルに感じて現場通訳と遜色のないパフォーマンスができるようになるかもしれません。(その頃には通訳者はいらないかもしれないけれど…笑)しかし「今はまだ」その段階にきていません。
エージェントや機材業者はどうか。市場が遠隔に流れ機材が低コストで利用できるようになれば、通訳者とRSI業者とお客様が直接ビジネスを始める場面は確実に増えるでしょう。そうするとエージェントも機材業者も要らなくなるか…?むしろ、質が求められる現場にはますますエージェントや機材業者の関与が必要になると私は考えています。特に日本はエージェントを通じて通訳者手配をする仲介型モデルが確立しており、お客様と直接折衝することにまったく不慣れな通訳者が多数います。もっと言えば機材のことをあまり詳しくは知りません。また、会場が大きな現場になれば現場機材を適切に組んでRSIシステムに音声を送ることは、専門のエンジニアでなければ不可能です。実際、私も現場にエンジニアのいないRSI経験では現場から送られる音声に随分苦しめられたことがあります。今はコロナ禍で、そもそもエンジニアが入ることが難しい個人事務所や自宅から参加ということも多いですが、スピーカーの声が室内で反響して…というのには閉口せざるを得ません。あー…ヘッドセット、せめてイヤホンを使って下さいと何度泣きそうになったか。
変化へ向けて市場プレーヤーはどう行動すべきか
コロナ禍のため現場通訳がほぼ停止状態の現状、なんとか需要開拓を試みようと遠隔通訳に注目が集まりそれが追い風となり遠隔会議・通訳へと流れが加速しています。個人的にはRSIへの流れはあるべき姿と考えていますし、それが加速することは良いことだと捉えて無闇にその流れを恐れず対応していく柔軟性は必要だと思っています。しかし、現在の市場の論調を見ると、RSI業者が「コスト削減できます!ITノウハウを身に付けましょう!」とその利点を前面に出し、お客様、特にお金に敏感な経営者は「低コスト」に反応してその波に乗ろうとしている、そればかりが目につきさらに強調されすぎているように思います。変化には痛みが伴うのは常です。この流れの中で市場のすべてのプレーヤが互いの強み弱みを理解した上で、お互いが「今現在(今はまだ)抱える問題」に目を向け認識した上で「明確に言及し」けして古いやり方に止まるのでなく「解決する」にはどうすべきかということに知恵を出し合いながら進められないか?と強く思います。
通訳者の立場でいえば、通訳技術を磨くことは大前提です。何らかの理由で遠隔やRSIに対応しないという選択をする方もいるでしょう。しかし、もし遠隔・RSI利用で業界全体が健全に機能していくことに希望を見出しているなら、やはり、自分たちも変化することは待ったなしです。現場の技術を勉強して会議資料の電子化など身近なテクノロジーを利用し適切に自衛策を講じられるようにすることや、お客様と直接やり取りする場合に留意することをエージェントさんの過去の振舞いを振り返り学び実践しなければならないでしょう。
技術の進歩で市場に明るい未来が見えることは喜ばしいことです。しかし、今はまだ、既存市場の形が一気に崩れる程の大きな変化は訪れておらず、人間通訳者も、機材業者も、エージェントさんも必要です。その上で、特にRSI業者さんへは、お客様に遠隔・RSIをアピールするだけでなく、通訳者やエージェントおよび機材業者の遠隔・RSI移行に絡み「今はまだ解決すべきどんな問題があるのか」「今はまだ何が必要か」を具体的に考えて時系列で対応の方向性を市場に提示し、お客様を巻き込む形で会議やプロジェクの成功にみんなで向かっていける波を作って下さったらと思います。何しろ今注目の遠隔・RSIなのですから!